なんでもやりたいの本質を探す時間
職業訓練の説明会3つに参加した。
どれも聞いた直後はやってみたいと思った。
いつもそうだ。
そうやっていつも猪突猛進してきたが、
そろそろ一度、歩みを止めて周りを見たいと思う。
自分のしたいことを掘り下げてみたい。
自分が物事を選択しだしたのは記憶の限り高校からだと考える。
高校
工業高校-情報科
中学までPCでたくさん遊んでいた。オンラインゲーム、チャット、ブログ、YoutubeとずっとPCを触っていたのでこのままPCを学びたいと考えていた。コンピュータを学んでいた兄の影響もありプログラミングを学んでいきたいと思った。
その中で、基本情報技術者の資格を取ることを目標にした。それはなぜか思い出せないけど取ることが目的になってしまった。高校三年生の時に資格を取ることが出来たが、なんのために取ったのかわからなくなってしまった。
その時テレビで川崎和男さんの特集を見た。人工心臓をデザインしていた彼を見て、様々なものに関わり問題を解決しようとしている彼の姿にあこがれデザイナーを目指すことにした。美術部に入り、デザインのある大学を目指したが、試験に落ちてしまった。そこで家の近くの大学に入ることにした。
大学-情報デザイン
プロダクトデザイナーの人がいると書いてあったからこの大学に決めた。けれど主に授業を行われていたのはグラフィックデザインで思っていたのとは違ったが、考え方は共通していてとても新鮮なことばがりでグラフィックデザイナーを目指そうと思った。
海外に行ったり、大学のイベントに関わったりと充実していたように思う。大学4年でこれから続けていく仕事は何にしようかと考えた。今思えばグラフィックデザイナーじゃないの?と思うが改めて考えた時に、ずっと続けていることは何かと考えた時に子供のころから見ているアニメーションの制作に関わりたいと考えた。
求人に応募して採用となったので上京して働き始める。
東京-アニメーション会社
コンポジットと呼ばれる映像加工作業の仕事。3年間楽しいことも苦しいこともあった。涙を流すこともあったが続けたいと思った。自分が抱いてきたアニメへの思いを次の世代にもつなげられればと思っていた。お給料と自分の生活水準は合っておらず、生活に困窮しだす。また、作っていた作品がどんだけ頑張ってもよくならないと、それは海外の上りが悪いと考えて、こんなものを薄給で作ってられるかとやめる決意をする。今思えば海外の上りも悪かったが、それに対しての自分の力不足というのも等しく感じていた。
3年間の業務の中、自分はもっと人と関わり仕事の根本を動かしていきたいと考えた。そこで出版社と広告の営業の採用を見つけ、採用された広告の営業へ行く。
屋外広告の営業
大学の時に夢見たオリンピックの仕事に関わりたいと思い、選んだ仕事だった。
ただ思ったよりも深夜労働が多かった。お給料は前の二倍をもらえるようになったのでので生活は安定しだした。クライアントと関わっていく作業、同僚と関わっていくことは大変だったが、以前ものづくりをしていたときに感じていたストレスは感じなくなった。ただその会社は完全なる縦社会で飲み会も多く、営業は飲むものという古いスタイルだった。生理的に無理だと思ってしまった。仕事を新しく探し出したとき、映像配信業界最大手がコールセンター員を募集していたので飛びついた。
コールセンター
目標はこの会社のコンテンツ部門に行くことだったが、二週間で首になり、現在に至る。
職業訓練の説明会は
貿易
webデザイン
ネットワークエンジニア
の三つに行った。
まとめると
僕はゲームを作りたかった、
僕は何でも作れるようになりたかった
僕はポスターや本を作れるようになりたかった
僕はアニメを作れるようになりたかった
僕は人と人を繋げて、イベントを開催できるようになりたかった
僕はもう一度アニメを作りたかった
そしていま
海外の人も含めいろんな人と関わりたいと思っている
webでボードゲームを販売したことからデジタルマーケティングをやってみたいと思っている
ネットワークを自分で管理してみたいとも思っている
一貫しているのは
僕は人と関わりたいと思っている
デジタルが得意分野ではある